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書 名内藤湖南
作 者三田村泰助
出版社中央公論社
シリーズ中公新書-0278

memo
【抄・序】


【目次】
p3…内藤家の系譜
p35…青年時代
p103…ジャーナリズムの世界
p201…京都大学以後

p255…あとがき
p227…参考文献
p228…内藤家系図

【本文】
p29
十湾はその師についてつぎのようにのべている。「藩公の侍医江幡道春の次男五郎(初め健弥と称す)、梧楼と号し、脱走して上国に游学すること十五六年、初め東条一堂に学び、後森田節斎に従学し、学大いに進み、其の名天下に噂し、藩公召し返す、梧楼翁少壮在藩の時より、頴敏多才の誉あり、加へて苦学を以て弁舌爽快、その経史を講ずるや流暢明活一点の苦渋なく、抑揚頓挫殆ど演技を聞く如し、人皆倦むを忘る。予も亦翁の門に入り、従来諸師の講ずる所空論徒説たるを覚え、遂にその塾に入り日夜勉強したり。予の学問を悟りしは、実に梧楼先生の賜なり」とある。これで見ると十湾がいかに那珂梧楼に傾倒したかがわかる。それは同時に十湾がそれまで学んだ折衷学から離れていったことを物語る。

p30
梧楼は弘化元年(1844)数えの18歳で近習にあげられたが、青雲の志にもえ、「声名を以て海内を驚かさずんば、一生鬼柳関(境上の関所)に入らず」という壮烈な一詩を作って脱藩し、江戸にでた。鹿角学と縁の深い折衷派の東条一堂に学んだがあきたらず、さらに京都にで、当時西岩倉に住む森田節斎に師事した。
 節斎は大和五条の人、若いとき京都の儒者猪飼敬所に教をうけたが、さらに頼山陽について古文を学び、深くその影響をうけた。山陽もまたその才を激賞したという。のち江戸に出て昌平黌に入っている。このようにして梧楼が学ぶころはその文名は関西にひびいた。その学は司馬遷の『史記』と『孟子』をもっとも重んじたとされる。『孟子』は革命を是認する書として本場の中国でも権力者はこれを忌避した。ここに『孝経』を重んじた山本北山の穏健な学風とのちがいがはっきりみられよう。そして節斎は尊皇攘夷を説き、交友にも梅田雲浜、頼三樹三郎、宮部鼎蔵らの激越な志士の名がみえる。また門下にも気節の士が多く、なかでも「森門の四郎」の名が高かった。四郎とは巽太郎、吉田寅次郎、乾十郎に江幡五郎を加えたいいである。これによって梧楼が節斎に傾倒し、その高弟だったことがわかる。このうち乾十郎は天誅組を組織したひとりだが、節斎はその黒幕とされた。また四郎のうち二郎は節斎から破門されている。すなわち巽太郎は『学者評判記』を出版して京阪の儒者たちを罵倒したことによる。もうひとりは江幡梧楼で、節斎に従って郡山に赴いたとき、奈良木辻の妓女とねんごろになったことをもって、師から放逐された。奔放な青春の燃焼と目すべきであろう。しかし梧楼の才を愛した節斎はかれを同じ頼門下である広島の儒者坂井虎山に入門させた。そしてここで梧楼は長州の志士土屋弥之助と親交を結び、さらにかれを通じて同藩の来原良蔵、井上荘太郎等と知った。この長州の志士との交わりがやがて梧楼と吉田松陰を結びつけることとなる。

p32
嘉永四年十二月梧楼は吉田松陰、宮部鼎蔵と同行して帰国の途についた。梧楼は変名して安芸五郎とか芸州の人那珂弥八と称したという。この時の行動は松陰の有名な「東北遊日記」にみえている。

那珂梧楼が折衷派にあきたらず、頼山陽門下の森田節斎に服したように、十湾もその師梧楼の手引きでまた折衷派をぬけでて、ついに山陽に傾倒し、終生変わるところがなかった。それはまた若き日の湖南にひきつがれた。この間のことを湖南は「耶馬渓図巻跋」の中で次のように記している。「先子十湾府君、業を那珂梧楼先生に受く。先生の師森田節斎先生は頼山陽先生の門に出ず。先子頼氏を尊信すること尤も篤く、其の少時頼氏の遺書を手鈔し、篋笥に積盈す。是を以て余、勝衣学に就くや巳に尽く頼氏の書を読み、其の史論、書紀、古詩、楽府の若き多く能く諷誦口に上す。其の後百氏を渉覧し、経芸を穿穴し、力を乙部(歴史)にもっぱらにす。粗(ほぼ)学術の流別を知るも、未だ頼氏の択取する所有るを免れず。然れども家学の自ら其の緒論とする所、未だ嘗て之を尊重し、尋繹せずんば非ず 云云」(『宝左あん文』による。原文は漢文)。これによって湖南はその家学が頼氏に出て、しかも湖南の学問自体もその影響下にあったことをのべている。
 また十湾は吉田松陰を崇拝し、湖南の名寅次郎は寅年生まれであつたことにあわせて、松陰のそれをとったとされる。

p33
なお付記すると那珂梧楼の養嗣子が那珂通世であった。

p208
京都学派
京大の東洋学に冠せられたこの名称は私の記憶違いかもしれないが、たぶん郭沫若氏あたりがいいだしたのではないかと思う。氏が日本へ亡命中、中国古代社会史の研究に没頭したが、そのおり使った殷墟出土の甲骨文は東大では偽物視してとりあげず、いっぽう京大でははやく内藤湖南がその資料的価値を認めていたことから、郭氏はそれを徳として、京都学派と名づけて顕彰したのであろう。しかしこの名称の有無にかかわらず、文科大学創設当時から独自の特色を出そうと考えていたことは、狩野君山が、「東洋学は勿論その他のものも東京の学風には雷同せぬ、大いに特徴を発揮することに努めようとした」とのべていることによってしられる。

【後記・他・関連書】


【類本】
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