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4-b1935-21184-b
書 名大衆小説の世界と反世界
作 者池田浩士
出版社現代書館
シリーズ-

memo
【抄・序】
(帯)より
白井喬二や中里介山から「新青年」の諸作家、押川春浪・海野十三にいたるまで、いまなお問題を孕む諸作品に即して、大衆小説が描き出す世界と、読者がそこに見出す反世界との緊張にみちた関係を、日本の近・現代史の流れの中で捉え返す、力作長編書下ろし評論。

【目次】
p5…序章
p25…-1-行動する想像力
p115…-2-もう一つの現実を求めて
p185…-3-この世界の桎梏を絶て!
p257…終章(他者の目と他者への目)
p274…あとがき
p276…人名・書名索引

【本文】
p6
すでに1935年春、横光利一は純文学と通俗小説との区分をとりはらうことに、文学表現の活路を見出そうとしていた。
p8
〈純文学論争〉が、1961年という時点に闘わされたことは、偶然ではないだろう。論争の端緒は、一文芸雑誌の創刊15周年記念にあったとはいえ、論争の問題点は、もっと大きな事実とかかわっていた。すなわち、活字というメディアによって表現活動の中心的な存在であり続けた小説が、テレビや劇画をはじめとする視覚メディア(あるいは視聴覚メディア)の表現に王座をわたさざるをえなくなりつつあるのが、だれの目にも明らかになってきたのだ。
p27
大宅がここでまず目を向けるのは、日本の文壇である。かれは最近数年間のあいだに日本の文壇で《創作並びに鑑賞の両分野に、本質的な転換が行はれた》という指摘からはじめる。−−従来の文学作品は、通俗文学を除けば、すべて作者の第一義的欲求にもとづいて生まれる、と信じられていた。創作の根本的動機を〈自我〉以外に求めることは、かれらにとっては耐えがたい屈辱でさえあって、かれらは良心的であればあるほど〈自我〉を守ることに忠実だった。
p162
それでは、もしもかりに検閲を考慮する必要がなかったとしたら、火野葦平はすべての真実を書くことができただろうか?

この現実のなかには、ついに目をそらすことによってしか表現しえない<事実>があるのではあるまいか?

読者にとっては、書かれていない事実へのまなざしこそが、重要なのではあるまいか。

p268
文字メディアによる大衆小説から、いわゆる中間小説を経て、視聴覚メディアによる劇画・動画や、さらにはみずからが装置をあやつる部分が飛躍的に増大した電子回路諸表現にいたるまで、この半世紀あまりのあいだに大衆的な文化表現がたどった展開の過程は、うたがいもなく、それらの表現の受け手たちの感覚の多様化と、またある面では深化と先鋭化の過程でもあった。


【後記・他・関連書】


【類本】
4-7684-5522-0
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