書 名 | 国民文学論 |
作 者 | 竹内好 |
出版社 | 東京大学出版会 |
シリーズ | 東大3・6版 |
【抄・序】 |
(まえがき)より 国民文学ということについて言えば、私は、それを提唱すれば、それが実現すると思っているわけではない。できるか、できないかは、やってみなければわからない。できるかもしれないし、できないかもしれないのである。できなければ滅亡である。史上、滅亡した民族はないわけではない。ただ私は、自分が生きているかぎり、日本民族の滅亡に賭けるわけにはいかない。それは生本能に反する。だから、日本民族が生き残るかぎり、文学の花さく時期はおとずれるものと信じ、その夢を見ているだけのことである。 |
【目次】 |
-1- p3…日本の民衆 p16…亡国の歌 p25…美文意識について(「文芸」1951年7月) p33…教養主義について -2- p49…ナショナリズムと社会革命 p59…アジアのナショナリズムについて p63…近代主義と民族の問題 p75…国民文学の提唱-伊藤整氏への手紙-日本読書新聞1952年5月14日号 p80…国民文学の問題点 p95…文学の自律性など p109…趙樹理文学の新しさ p124…武田泰淳の「風媒花」について p138…国民文学論の深化 p167…変革期の人間像 -3- p177…人間・芸術・教育 p187…軍隊教育について p197…政治・人間・教育 p220…人と人との間 |
【本文】 |
美文意識について p30 ほんとうの表現 床屋が床屋らしく、検事が検事らしく、文章を書くのがいいのだ。 床屋が雑誌の巻頭論文のマネをしたり、検事が文壇小説をマネして不必要なドギツイ表現をすることは、ちっともいいことではない。人はだれでも、思ったこと、感じたことを正確に表現するべきである。ところが、思ったこと、感じたことを表現したのでは、文章にならないという懸念があるのだ。つまり美文意識だ。憲法からはじまって、あらゆる文章がこの美文意識にわざわいされて、生活から遊離したものになっている。そして、本当の表現が鬱屈している。この責任は、少なくとも表現の技術的側面の責任は、文学者にある。文学者の社会的機能は、この鬱屈した表現を解放することにあるはずだ。 |
【後記・他・関連書】 |
【類本】 |